諏訪神社周辺のぶらり歴史散歩

立川市柴崎町にある諏訪神社の周辺はかつての立川市の中心でした。この周辺に人が住み始めたのは縄文時代にまで遡ります。現在の柴崎町4丁目や錦町4丁目から羽衣町3丁目にかけてのエリアでは縄文時代の遺跡が発見されています。立川崖線と言う崖が連なる地形によってもたらされる湧き水が当時の人々にとって貴重な飲み水であったことは想像に難くありません。今でこそ駅前の賑やかな繁華街が人の集まる人気スポットですが、太古の昔は崖や山などの水の豊かな場所こそが一等地だったのです。と言っても崖下はダメです。崖下は多摩川に続く低地のため、居住するには不適でした。大雨が降り川が氾濫でもしようものなら財産はおろか生命すら危うくなってしまいます。人々が求めて住もうとしたのはより安全な崖上だったのです。柴崎町の大和田遺跡、そして錦町から羽衣町にかけての向郷遺跡(むかいごういせき)が崖上にあった事がそれを物語っています。柴崎町のかつての中心部付近を歩いてみると、いかにも旧家然とした立派なお屋敷などが目につきます。こうした家はかつて一等地に住んだ有力者の子孫の方たちなのかなぁなどと想像するのも楽しいものです。

二つの崖線と丘陵

立川市周辺は水が豊かなエリアとして知られます。と言うのも立川市内には南端部に多摩川が流れ、そして南部に立川崖線があるからです。立川北部にはさらに国分寺崖線があり、幸町あたりから若葉町を通って国分寺、国立、小金井市と連なり最終的には大田区の田園調布あたりまで至る長いものですが、立川市における崖はちょっとした坂道というくらいの段差しかありません。この程度の段差だと水が湧き出るという事もなかったでしょう。これに対して立川崖線は柴崎町付近で既にかなりの段差があり、現に今も水が湧き出しています。段丘上で吸い込まれた水が地層によってろ過され湧き出してくるのですから当時の人達にとってたまらない飲み水だったでしょうね。この水を求めて人々が集まり集落を形成、やがては村へと発展したのです。その村こそ「柴崎村」であり、今の柴崎町へと繋がっています。

立川市は上述した柴崎村と北部の砂川村が合併してできたものです。砂川村は柴崎村に比べると歴史が浅い。というのも周辺には残堀川という野川こそあれ、その野川は頻繁に流路を変える暴れ川であり、かつ水量も大した事はなかったからです。飲み水の確保が難しく、大規模な集落が形成される環境ではなかったようです。ではどうして砂川村ができたのかと言うと、それは江戸時代初期に開通した玉川上水のおかげでした。玉川上水は乾いた武蔵野の大地を潤し、江戸市民の貴重な飲み水としてだけでなく農業用水としても利用されます。

玉川上水から引いた分水の水を利用して新田開発が行われ「砂川新田」呼ばれるようになります。その砂川新田が発展してできたのが砂川村です。当時の岸村から移り住んだ村野三右衛門という人が開拓を始めたと伝えられています。た岸村は現在の武蔵村山市、狭山丘陵のふもとにあったものです。狭山丘陵もまた太古の一等地として竪穴式住居跡が見つかるなどしています。南部の一等地、そして北部の一等地がここで繋がるのです。

柴崎村と諏訪神社

諏訪神社拝殿

柴崎村の鎮守の神様、諏訪神社の拝殿。

古くから人々が暮らした柴崎町周辺。やがて柴崎村に発展するわけですが、こうした村では人々の拠り所として神社が必要でした。鎮守の神様として村人たちの信仰を集めたのが諏訪神社です。弘仁2年(811)信州諏訪大社を勧請して現在の立川市柴崎町1丁目(現在の諏訪の森公園内)に創建されました。御祭神は建御名方神(たけみなかたのかみ)。この神様は軍神として信仰されたほか、農耕神・狩猟神としても信仰されました。また風の神ともされ、元寇の際には諏訪の神が神風を起こしたとする伝承もあるそうです。明治41年11月27日八幡神社を合祀し、次いで明治43年2月12日、浅間神社を合祀したと言われています。本殿は市内最古の木造建築として市の有形文化財となっていたのですが、1994(平成6)年に火災に遭い、全焼してしまいました。その後平成14年(2002年)に新社殿が再建されたのです。

諏訪の森公園

諏訪神社の北、道路を挟んで隣接する公園です。もともとは神社を取り囲んでいた鎮守の森の一部で、戦後に整備され、今のような近代的な市民公園に姿を変えました。約1,200年の歴史をもつ神社には、かつてはうっそうと木々が生い茂り、昼でも暗がりになるほどだったといいます。園内には丈の高い樹木が林立し、そうした当時の面影を見ることができます。ここには、緑をもとめて野鳥が数多く集まってきます。立川駅からそれほど遠くないのに、ウグイスの鳴き声が聞こえてきたりするのです。

諏訪の森公園遊具

諏訪の森公園の小山。滑り台がついています。

中嶋家の門

中嶋家門外観

諏訪神社の鳥居から南西に少し進むと目に入るのがこの門。これは柴崎村の名主であった中嶋家があった場所を示すものですが、こ奥に家屋敷はなく、ただ門だけが残されています。江戸時代末期に代官から譲り受けたものだそうです。確か、この周辺に同じく「中島」の表札のつけられた大きなお家が幾つかあった事を記憶しています。恐らく名主の一族の末裔なのでしょう。また、今年3月末(平成30年)に桜を見がてら普済寺にお参りした祭、国宝六面石幢(ろくめんせきとう)を見るため墓地を通り抜けた際、やはり「中島家」のお墓が幾つか目につきました。こうしたことからも当時柴崎村で重要な位置を占めた一族なのだななぁという感想を抱きましたね。

八幡神社大欅

八幡神社大欅写真

八幡神社大欅は中嶋家の門から北西に少し歩いた場所に立っています。樹齢700年と言われ、少し痛々しいながらもちゃんと生きて枝を広げています。この大欅はかつてこの付近にあった八幡神社の参道に植えられていたそうです。八幡神社は鎌倉時代以降武士の守り神として全国に建てられもので、当時立川一帯を支配した「立川氏」の氏神として建長4(1252)年創建されました。戦国時代、立川氏が滅亡した際に神社も火災にあったため、当時を偲ぶものは創建当時参道に植えられたこの大欅と記念碑だけとなっています。看板によれば「この大欅の西側を南北に通る道は、八幡神社の参道でした。八幡神社本殿は、この大欅の北約50メートルの所にありましたが、明治40(1907)年に諏訪神社本殿の東隣に移築されました。昭和37年7月の調査では、周囲6メートル、高さ28メートルほどの大きさがありましたが、その後台風などの被害により、上部の幹が折れ、現在の姿に至っています。立川市内最大級の樹木です」とありました。天高くそびえ立つ姿はどれだけ勇壮だった事でしょう。大けやきから南に伸びる道の辺りは、昔「たんす横町」と呼ばれる立川の中心地だったそうです。

ちなみに、八幡神社は一旦焼失し、天保12(1841)年に再建されものが諏訪神社の境内に移築されました。

獅子舞御宿

獅子舞御宿画像

八幡神社大欅のすぐ西隣にある柴一八幡回の公会堂は、「獅子宿」とも呼ばれ、毎年8月の諏訪神社と八幡神社の例大祭で奉納する獅子舞の練習場として使用されています。この獅子舞は元禄時代から現在の富士見町3~5丁目、柴崎町1丁目の旧村地域に伝承され、祭礼当日にはこの宿から隊列を組んで出発し、両神社に伝統的な獅子舞を演舞奉納しています。

万願寺跡

万願寺跡に残る井戸

八幡神社大欅・獅子舞御宿から道を南に少し進むと満願寺井戸に至ります。この井戸はフェンスで囲われ、フタをしてありますが、かつてここの満願寺があった事を伝える史跡です。この井戸があった場所には昔東光院という寺があり、大変栄えていたそうです。ところが、徳川四代将軍家綱の頃(17世紀後半)には衰えてしまいました。そこで、元禄時代(1688~1703)の頃の住僧泰運が、名僧として名高かった黄檗宗(おうばくしゅう)の鉄牛を招いて開山しようとしました。

鉄牛は弟子の別峰を派遣し、薬師仏を安置してこれを中興させました。これが、医王山満願寺です。 満願寺は、その後、この地の人々の信仰を集めていましたが、廃仏毀釈により、明治八年(一八七五)、廃寺になりました。今ではこの井戸だけが、当時をしのばせています。仏具などはほとんどなくなってしまいましたが、2枚の「聯」(寺の柱などに左右相対してかける書画・彫刻の板)が、今も柴崎町の旧家に残されているそうです。