かつては運河のようだった・・玉川上水の昔

巴河岸跡の風景

玉川上水は承応3(1654)年、羽村取水堰から四谷大木戸まで素掘り(崩れの補強を行わずに掘削すること)による水路として完成しました。全長約43キロメートルですが、標高差はわずか約92メートルの緩勾配(緩い傾斜)というのですからすごい技術力です。それを着工からわずか8か月で完成させたのですから驚きですね。しかもですよ、玉川上水は荒川水系と多摩川水系の分水線を流れているというのです。偶然なのか、計算ずくなのかわかりませんが、幾つかの段丘を乗り越えて分水線にたどり着いているあたりを考えると、やはり計算してそうしたのでしょう。その当時の人たちがいかに優れた技術・知識を有していたのかがわかりますね。分水線を流れているという事が後に大きな意味を持つことになるのです。

水不足に悩む江戸を潤した玉川上水

徳川家康の入植後徐々にに発展を遂げた江戸では三代将軍家光の時代になると参勤交代導入によって諸国の大名が江戸に集まり、その家臣団を含む多くの人口が流入するようになりました。そうして彼らが消費する物資を調達するため商人も集まり、経済規模も拡大したのです。

人口増加に拍車がかかり飲料水が不足するようになると、それまで小石川上水を改良した「神田上水」や「赤坂溜池」からの水を利用していましたが足りず、新たな水源が必要となったのです。そこで考えられたのが多摩川の水を江戸に引き入れるという壮大な計画でした。総奉行に老中松平伊豆守信綱、水道奉行に伊奈半十郎忠治が任じられ、町人の庄右衛門・清右衛門兄弟がこの工事を請け負って完成したのが「玉川上水」でした。福生市にある「水喰土(みずくらいど)」で水が吸い込まれるなど途中失敗しつつもわずか8か月で全長約43キロメートルにも及ぶ玉川上水を完成させた功によって庄右衛門・清右衛門兄弟は玉川姓を与えられる事になるのです。玉川兄弟として後世に知られる彼らの像が今も羽村の堰一帯を見守っています。

こうして江戸の市民ののどを潤した玉川上水は、次第に農業用水としても利用されるようになったのです。野火止用水を皮切りに、砂川・柴崎など多くの分水が引かれ、その周辺で新田開発が行われたのです。

多摩川水系と荒川水系の分水線を流れる玉川上水

30を超えたと言われる玉川上水からの分水は、玉川上水が分水線を流れていたことによって可能となったのです。分水線というのは山で言いうとことろの尾根、要は雨が降った場合にその線を境にしてどちらに流れるのかが決まる一番高いところです。例えば、立川市付近でほぼ東西に流れる玉川上水。その玉川上水より北側にある川は最終的に荒川に合流し、南にある川は最終的に多摩川に合流します。狭山丘陵にある野山北公園を水源とする空堀川は同じく狭山丘陵を水源とする柳瀬川に合流し、最終的に荒川に流れ込むので荒川水系。国分寺崖線を水源とする野川は世田谷区で多摩川に合流するので多摩川水系となります。前者は玉川上水の北、後者は南を流れています。

その点残堀川は特殊な川と言えます。水源は西多摩郡瑞穂町にある狭山池公園なので、荒川水系と思われる位置にあります。玉川上水の思いっきり北に水源がありますからね。ところがこの川は不自然に南に進み(通常ならベクトルが北に向くところ)多摩川に流れ込む多摩川水系の川なのです。何故そうなるのか?答えは立川断層にありました。断層とは地殻がずれることによってできる段差構造です。ですから段差のある所に小川が流れる事がよく見られのと同じような事だったのでしょう。現在の流路が人工的に作られたにせよ、それでも以前流れ込んでいたのが矢川という事で、この矢川が最終的に多摩川に流れ込む多摩川水系の小河川である事から、残堀川も純然たる多摩川水系の川と言えます。

本来なら荒川に向かって流れていくはずのものが、断層に沿って不自然に流れていくうちに分水界を超えたと考えれば納得できますね。

舟運が行われた

飲料水確保のために開かれた玉川上水でしたが、一時舟運(しゅううん)が行われたことがありました。何故なら当時運輸の主役は舟運だったからです。人馬に比べてその輸送力は圧倒的であり、玉川上水沿いの村々では玉川上水に船を浮かべたいと常々考えていたようです。江戸時代にも地元の有力者から何度か玉川上水の通船願いが出されましたが、上水の水質悪化を案じた幕府が許しませんでした。ところが、明治維新の混乱のさなか、新政府がついにこの願いを受け入れたのです。こうして、地場の農産物や繊維などを乗せた船が行き交い、それはもう賑やかだったようです。こうして砂川村に設けられたのが「巴河岸」でした。現在の立川市砂川町3丁目のあたりにその跡地を示す案内板が立てられています。見影橋公園から上水の南側の道を金比羅橋に向かって少し行くと見つかります。

巴河岸跡案内板

フェンスの内側に立てられた案内板。以下抜粋

「明治時代初め、玉川上水に舟を浮べ、物資を東京に運ぶことを、同時の砂川村の名主・砂川源五右衛門たちが政府に願い出ました。

舟運は、明治三年(1870)に開始されましたが、衛生上の理由から、明治五年には廃止されてしまいました。

この巴河岸は、玉川上水が舟運に利用されていた当時の船着場で、伊勢の人・巴屋某が船頭をしていたため、巴河岸とよばれるようになったと伝えられています。

なおこの玉川上水の舟運利用が、現在の中央線開通の一因と言われています。」

もともとが飲料水確保のための上水です。舟運に利用されようになって水質が低下してしまえば、これを飲む人々の健康も脅かされ、流行り病などで多くの人が命を落とすことにもなりかねませんから、開始後わずか2年あまりで廃止されたのも仕方のない事だったでしょう。

ところが、一度便利な思いを味わった人達はこれを忘れることはできません。実利もあった事でしょう。そこで、度々舟運事業再開の陳情がなされましたが、ついに許可されることはなかったようです。舟運に代わる輸送手段をなんとしても確保したいと想う気持ちが、甲武鉄道(後の中央線)を立川に通そうとする原動力の一つとなったようです。

ちなみに上記看板にある「名主・砂川源五右衛門」という方の名にちなんだ分水が引かれ、その名も「源右衛門分水」と呼ばれました。見影橋にある看板にはこうあります。

「見影橋は、江戸時代から架かっていた古い橋です。その頃は村を流れる玉川上水の、上流から四番目の橋だったので「四ノ橋」とよばれました。また、名主の屋敷に近いこともあって「旦那橋」ともよばれました。大正時代に「御影橋」となり、今では「見影橋」の字をあてています。橋が広げられるまでは、たもとに明治初めの名主家当主の名前にちなんだ「源五右衛門分水」の取水口がありました。今でも橋の南西側にはその跡が残っており、見ることができます。」

見影橋の北側からのぞくと、源五右衛門分水の取水口跡を見る事ができます。興味のある方は一度ご覧になってみてください。

巴河岸跡からもうしばらく歩くと立川市唯一の山と言われる「金比羅山」があります。これも、玉川上水を掘った際の土を盛ったと伝えられる、玉川上水と関わりの深いものですので、登ってみてはいかがでしょうか。登山というのではなく、階段を少し上がるくらいですからきつくはありませんよ!

西武拝島線「玉川上水駅」からウォーキングがてら西に向かうか、あるいは「武蔵砂川駅」から南西に向かうかお好みでどうぞ。巴河岸跡までは武蔵砂川駅最寄りとなりますが、駅からまずは南進し玉川上水にぶつかったら上水に沿って東に向かいます。まずは見影橋を見つけましょう。そして橋を渡って川の南側の(ひっそりとした)道を進みます。

2018年02月24日